2015/07/20
優秀な暴力装置
暴力というものは一般的にはイケナイものとされている。
しかし暴力というものはそれが「暴力」という言葉で顕わされる以前から暴力であっただろうし、それを「暴力という言葉で顕した」からこそ、不当であるとか不法であるとされたのである。
暴力には何かを排除したり、喪失させたり、破壊したりする力がある。力があるというよりも、その力を行使したときに暴力と認識される。
強かな暴力はそれと気付かれずに行使されるものである。
果たして自然に巻き起こる台風は暴力であろうか。時に起こる地震は暴力であろうか。
暴力と暴力が互いに拮抗している場所では暴力が一見発生しないのはそれは暴力といえるのだろうか。
国家が所有している暴力は法によってその正当性が認められ、時に行使される。
果たしてそれは「暴力」と言われるものとは本質的には同じものであるにも関わらず認められるのは、もちろん法によるものであろう。
それではそれを認めている法は暴力ではないのか。
暴力であるが、認めざるをえないものなのか、それともそれは暴力ではないと言えるのか。
優秀な暴力はそれを見つめ、いつでも虎視眈々と機会を伺っているのだろうか。
そして暴力がイケナイものだとするならば、どうしてなくならないのか。
それは優秀な暴力に聞いてみるしかないのではないだろうかと、暴力は常に自問している。